病気のこと

双極性障害と診断されてから1年と半年くらいが経った。

最初に明確なうつ病エピソードが見られたのが19歳の冬だから、正しい診断にいたるまで9年もかかったことになる。ちなみにこれはうつ病と診断されていた双極性障害の人間が、躁うつ病と「正しく」診断されるのに要するに平均的な期間(10年)よりも少しだけ早い。仕方ないとは言え、ひどい話だと思う。その間にどれだけのものを失ったか、見当がつかない。

前回、自分のうつ病の治療をしていた医者は、見抜いて然るべきだったと思うが、うつ病という診断で変わらなかった。抗鬱薬躁転した後、あれほど怒りのコントロールができていなかったのに。

とある女性と再会し(この人も躁鬱病だった)、お互いに躁転していた勢いで婚約した後、当然のようにうまくいかなくて揉めに揉めて別れて、ひどい疲労感の中1年ほど仕事をしていた。前回までの経験から精神科の治療に絶望感しかなかったからだ。疲労が絶えがたいほど溜まったあと、何とか報告書を書いた後、妙に楽しい気分になって、「一晩中、本を読もうと思う」と言ったら、当時の上司に「寝ろよ」と突っ込まれて、ハタと気がついた。「ああ、これは躁転だ」と。

医者にかかり、その通りの診断がついたとき、絶望と希望の両方を感じた。「よりにもよって、躁鬱病か・・・」という気分と、「これで、やっと自分にあった薬がもらえる」という希望だった。

飲み始めの頃は、リチウムはプラシーボ効果もあったのか良く効いた。が、腹には合わなかったらしく、副作用でひどい下痢をするようになった。たぶん、過敏性腸炎を併発したのだと思う。薬に慣れた今でも調子はあまり良くない。

医者から服薬の中止を指示され、代わりに出された薬を飲んでいたが、眠すぎて仕事にならないので勝手にやめてしまった。ここから二ヶ月ほど地獄を見ることになる。薬は飲んでいないので、気分は底無しに下がる、下痢はちっとも収まらないから飯が食べられない。不眠も再発したので眠れない。人生で上から5番目くらいの地獄だった。

上司には相談しておくべきだったかも知れないが、状態がひどすぎて休職させられそうだったので口を閉ざした。それに躁鬱病と診断がついた直後に昇進してしまって、班は自分ともう一人に新人がいるだけだったので、持ち場を離れることはできないと思って耐えていた。

もともと同期以外に交友関係がなかったが、飯が食えなくなった時期に同期とも交友を絶ったので、大学生の頃に戻ったように孤独になった。こちらの心が狭いのかも知れないが、食えないほど弱っているときに、普通に昼飯を食っている同期を見ていると疎外感を感じた。

腹をなだめつつ、下らない仕事をこなしながら、合間を縫って何とか第一著者の論文を一件書いたが、書き方が駄目だったらしく、当初狙っていた雑誌には落とされて、日本の雑誌に投稿しなおして受理された。

診断がついてから、一人の女性を好きになってアプローチしたが、あいにくの結果だった。今では、お互いに信頼のおける友人になれたので、これでよかったのかも知れない。

病気のことは信頼できる人間にしか言っていない。秘密を抱えているというのは、なかなかしんどいもので、全部喋ってしまえば楽になるようにも思うが、どう考えても、普通の健康な人に理解されるとも思えないので、その無理解や中傷を受け入れることができるようになるまでは、黙っているより他にないと思っている。

それに、そこまでオープンにしなくても良いのだろう。みんな何かしら、たとえ下らないとしか思えないようなことであっても、抱えているだろうから、自分も抱えて付き合っていくより他にないと思う。

自分のことを難治性の鬱病だと思っていた頃から、「病気を生きる」ことは人生そのものだと思っていた。まさに躁鬱病とどう付き合うかが、人生のテーマとなった。

失ったと書いたが、失うことでしか得られなかったものもあった。「これ以上失って困るものは何もない」という覚悟だった。

その覚悟は、あれほど臆病だった自分を、数百人の前で喋ることをなんとも思わないようにし、無理難題を課されても「答え」を出すために一歩も引かなくなった。

現在は上手く行っているが、人生はどこでどうなるかわからない。特に自分のような病気を持っていると。たまに眠れなくてオーバードーズして、不要な失敗をしているあたり、双極性障害の例に漏れず薬物中毒の気があるし、どっかでまた転落するような気もする。

が、自分は病気に邪魔されて、何もできなかった時期の損失を取り戻したとは思っていないので、その埋め合わせが終わるまでは、一切の容赦を自分にすることができずに、自分を駆り立てるように生きることになると思う。

次に、自分が立ち止まることがあるとしたら、それは自分が死ぬ時だと思う。