システムとして身体を組み直すこと

武術というは相手のある話であって、効く効かないは自分の身体のレベル以外のものに左右される。
つまり相手の習熟度によっては、その時点での正しい動きを行おうとも、相手がそれを止めてしまうことなどよくあるはなしである。

対人技が効く効かないは飽くまでも相対的な結果に過ぎず、それ自体を稽古の目標にすえるべきではない。なぜなら、相手も技量を上げているからである。もちろん相手の受けのレベルが上がるとさらに微に入り細に入った術理を使って崩すような工夫が始まるであろうから、これはこれで非常に有益なので、それ自体は尊重すべきものである。

ただ、自分は武術というのは、結局、相手の身体のシステムをいかに「騙して」崩すかということに終始するもののような気がしてしまい、稽古するのがイヤになっていた時期がある。それこそ騙し方はいくらでもあるのであって、術理の説明をすることすら、騙しのステップとして成立してしまっている。

私にはそのように感じられていてイヤだった。

武術というのは、好む好まざるに関わらず、相手という自分とは別のシステムが存在して、このシステムとの闘争的な争いを稽古しなければならない。そこで相手の感覚を騙し、システムを機能不全に陥らせるようなことばかり考えているという、そういう稽古しかないのか?と思うとイヤだった。相手がどう出てきても、むしろ敵の有無によらず、自分の身体の「あり方」は変化しない。そういうのが理想だと思っている。