甲野師範とタイルをすべる子供

いちおう、誰でも閲覧可能な媒体に書くので、前提を少し書いておく。

Blog主は2004年夏から、甲野善紀師範の主催する稽古会とか講習会に通っていて、自分が使う武術(?)における影響は少なくない。(ただ、多いとも言いがたい。特に剣術の体系が違う)

近年、先生の術理の説明は分かりにくくなる一途をたどっていて、2〜3年前に追いかけるのを諦めた。

先生と話した会話で覚えている言葉で、

「人間の体は『AだからBだ』とはならない。風がふけば桶屋が儲かる方式で自分でもどういう動きがおこるか、どうしてそういう動きになるのかは分からない。」

というのがあった。

自分は動きの精度を極力上げることで、全体的な地力を上げるという方法論を採用したので、どういう感覚なのかはさっぱり分からなかった。何せ、

「自分でも(自分の動きが)複雑すぎて、今からやる技が効くかどうかまで考えられない。だから余計に効く」

と言われても、想像のしようもない。「効こうが効くまいがど〜でもいい」というような、「投げやり的悟りの境地」のほうがまだしもわかりやすい。

その後、稽古にかける情熱が薄らいだこともあり、往時ほどに熱心に稽古はしていない。そういう自分にとって、「先生はどうして飽きないのだろうか?」という疑問は興味深いものだった。

今でも、複雑すぎて自分でも何が起きるか分からない身体を持つということの実感はわかないが、最近公園の噴水の周りのぬれたタイルの上を滑って遊ぶ小学生を見て、先生が稽古に抱く感覚について突如として思い当たった。

滑る、という要素は人間にとって、本能的に娯楽であるらしい。スキーはもともと猟師の移動手段であり、生活の中の技術だったのが、スポーツになり、一大娯楽となった。何故か?滑るからだろう。子供の頃の自分を思い出してみても、滑るという行為は、それだけで楽しいものだった。

どうやら人間は、自分が意図した動きを超えた動きを身体がしたときに、快感を覚えるらしい。それが滑ることの楽しさの本質だと思われる。

つまり甲野先生は、自分の身体が意図を超えて「滑って」しまうように感じらているのではないか?わずかな動きしかしていないのに、なぜか自分より体格のよい相手を崩し、相手が反応できないほどの動きを起こす。

それが先生にとって「稽古の楽しさ」の原因であり、彼の30年を超える追究の原動力になっているのだと想像する。

PS
逆に、自分は理想とする動きを思い描き、そのずれを修正し続けるという稽古法を採用した。(というかこっちのほうが一般的だと思うのだが)が、2年ほどで、頭で思い描ける理想の動きにかなり迫ってしまい、そして対して地力も上がってなかった。そりゃ飽きもするだろう。