自我を消すこと(武術稽古)

例として、水を飲むという動作における自我のあり方について考えてみる。

「喉が乾いたから飲みたい。そう思ったからコップに手を伸ばす。」
これが一般的な理解だが、脳波を見ると、これは逆なんだそうだ。つまり手を伸ばしてコップを取った後に、「喉が乾いている」と思う。

こういう例を見ると、自我が行動を制御しているという常識は疑わしく思えてくる。どちらかというと、自分の行動のつじつまを合わせようとして、喉が乾いたと思っているように見える。

反復し身体化された動作というのは、自我よりも早い。まあ考えれば当たり前だろう。生命の維持に関わるので、自我の誕生を待っていられない。

ところで、ここで自分が使っている「自我」という言葉の使い方って適切だろうか?Wikipediaを見てみると、「自己を対象とする認識作用」のこととあった。喉が乾いたというのも自己認識のひとつだろうから、さほど違わないだろう。

自分がここでいう「自我」は、あるいは「言葉」と言い換えてもいいかも知れない。感覚器官が受けとった情報が、即座に脳にもたらす「感じ」のことをクオリアという。水を飲もうとするときの、「喉が乾いた」という認識と、コップを手に伸ばす行動が逆転しているという現象は、「喉の乾き」のクオリアが、言葉という認識に落ちるよりも先に、「コップを取る」という行動を起こさせていると考えることができる。

言葉は遅いのだ。言葉が自分が感覚器を通じて受け取る世界を、意味にしたがって切り分けるまでにタイムラグがある。しかし言葉に切り分ける前に私たちは既に、感覚器に映る世界を内的に知覚しているのである。

この言葉に落とされる前の感覚を西田幾多郎は「純粋経験」と名付けた。正確には純粋経験の一形態である。西田によれば、記憶や意思もそれが現在の感覚であるという点において、純粋経験たりえるのだそうだ。故に、喉が乾いた人をして、コップを手に取らせた意思も、純粋経験と言っていいだろう。「言葉によらない精神の活動を純粋経験と言う」と考えればそんなに外してはいないと思う。

言葉による認識は、既に起きたこと、終わったことを、「物語」として組み直すことだ。状況を的確に説明できるように、瑣末な情報を省き、つじつまがあう話を作り上げる。そこには必ず因果関係がある。因果関係が科学と言い換えられるようになったのは、ここ100年とか200年以内の話だが、八百万の神とともにあった古においても、因果関係自体は当然あった。

しかし、さて目の前に斬りかかってくる相手がいる。あるいは、他の理由で、生命に多かれ少なかれ危機が生じている状況にあって、因果にとらわれている訳にはいかない。「危ない」と思った瞬間には遅いのだ、確実に。そもそも、因果によれば、相手が先に斬りかかってきたのだから、相手が斬るほうが早くなる。

状況を認識して、「おお、これは危ないらしいぞ」などと認識するよりも先に、体が動いてなければいけない。この瞬間に無我はある。いや、普段からあるんだが、この状況に限っては、その存在なしには窮地を脱することができない。

もちろん、窮地から脱することができない場合もある。というよりは、そっちの方が多いだろう。これは、無我の状態で可能な動きの中に、窮地を脱するに十分な動きが身体に登録されていない(動きが身体化されていない)とか、あるいは、本当の窮地に陥る前に、恐怖に囚われてしまって、行動が制限されるとか、無我の動きが阻害される場合だろう。

結局どうすればいいのか?どうすれば生き残れるのか?

もちろん危機に近づかないのが一番である。それをもって最高の護身という向きもある。しかし、例えば、である。目の前でナイフを持った凶漢が暴れていて、一方的な殺戮が起きている。赤の他人ならともかく、友人とか家族が巻き込まれそうだ。致し方ない。止めてみせるより他にない。なので、「君子危うきに近寄らず」は護身ではあるかも知れないが、武術としてはそれはない、と思う。こういうときに、武術を学んだものとして、どうすればいいのか?

自我を捨てるより他にないのだろうと思う。これから殺されるかも知れないと言う恐怖も、自分の動きが通じないかも知れないという疑いも、その場に至っては何もかも捨てて、無我に命を預けて、淡々と距離を詰める。相手が振り下ろすなり突いてくるなり、なんらかの隙を見せる。それにより自動的に動きが起動する。そこに相手に対する敵愾心も、自分の命が危ないと思う恐怖も介在する余地はない。自分という存在は、相手の動き・状態に対して動きを起動するためだけの「装置」である。言葉に落とすタイムラグが生じないという状態を保つことで初めて、「相手が優位だがら自分は死ぬ」という因果関係を覆す道が開ける。

思考が漏れたり、恐怖で過剰に反応すること防ぐために、あ〜しようとかこ〜しようと思うのも(本当は)下策だろう。事ここに至ったのだ。今更稽古不足を後悔しても無駄なので、何も考えずに行くのが一番だろうと思うし、それを実現すべく稽古するのが本来の姿だろうと思う。

もちろん自分にそれができるとは言わない。自分ならとりあえず、そのへんから棒切れでいいから拾ってから考える。