フリーハンドな「正義」という構造

アホな国だ。誰が政権とるかよりも、政権の安定化が最善策なことを自民の最後の3人の総理の交代で学ばなかったんだろうか?

民主党政権誕生はマスコミの陰謀とは思わないが、マスコミの構造的な問題点が起こしたことであることは間違いない。マスコミは「権力の監視者」としての特権的な立場にあると錯覚している。「監視者」というよりは「裁判官」かな?マスコミという「裁判官」という立場を手放さない以上、マスコミの政治に対する発言は、常に容疑者を裁くスタンスに則ったものになる。

そこには「自分たちは事態に直接的に参加してはおらず」、「裁くのは自分たちではなく、報道を見た視聴者であり、世論だ」というフリーハンドがある。この二つのスタンスをひたすら徹底している。報道を作るときのノウハウとしてマニュアル化されているのだろう。
その二つのスタンスの最悪な点は、自分たちは裁く側、取材を受ける側は裁かれる側、という構造の正当性が抑圧されて、一切議論にならないのだ。「公正で客観的な報道をしている」という思い込みにより事態に影響を与えた、あるいは、このような危機的な事態を招いたという自覚をもつことがなく、「裁くのが視聴者である」というタテマエから、報道という「裁判」の正当性を気にする必要がない。

これの逆の現象は裁判員裁判で、予想外に顕著に現れている。裁判員に選ばれた裁判員は「自分が判決を出す」ことの重さに「たじろぐ」。裁判員は判決を下す正当性が自分にあるか自問する。マスコミに何が欠けているって、この「たじろぎ」あるいは「ためらい」である。この「ためらい」が当事者であることの証だと思う。

民主党政権誕生を後押ししたにも関わらず、相変わらずの報道が続き、あらを探して支持率を下げ続け、首をすげ替える事だけに、日本は既に5年間を費やした。これはどう考えても致命的である。もう助かることはないだろう。ついでにいうと、リフレ派の説を私は信じていない。インフレが制御できるとはど〜しても思えない。

こう言ってる私も、麻生の読み間違いも、呆れはしたが、ど〜でもいいと思ってたし、福田の大連立構想も事態を考えれば適切な戦略だったと思っていたのに、白票をいれた。誰がやってもよくなることはないと、半ば諦めていたので、ど〜でもよかったつもりだったが、鳩山が予想外過ぎた。自己愛性人格障害の人間を首相に据えてしまったことは悪夢だったが、沖縄の基地負担の軽減を考えると、やり方はともかくやったこと自体は道義に適っていたと思っている。基地は山口か、長崎が適していると思うし、沖縄から一つくらい東京に持ってくるべきだ。さもなくば核武装を含めて武装すべき。

自分も民主党政権の片棒を不真面目に担いだ以上、あまり大きなことは言えない。しかし、せめて間違いから教訓は汲むべきだと思う。このような事態になると、ほぼ確信していたが、国民とマスコミが教訓を得るためのプロセスとしてやむを得ないかも知れないと思ってもいた。そして、再び自民に戻っても谷垣が同じ目に合うことは、かなり確度が高いと思う。だってこれは構造的な問題なんだから。

だから自民党は、その構造から脱するためにも、批判しながらも予算案には協力すべきだし、小泉、安倍と税制改革を先延ばしてきたツケを今払うべきだ。政局をやっていられる時期はとうに過ぎた。権力争いがやりたいなら、その場で殺し合えばいいじゃないか、と思う。見てると、重箱のスミをつつくようにネチネチと・・・面倒くさくないのだろうか?首相としての器があろうがなかろうが、ど〜でもいいんだって。やってることが正しい限りは。だから正しい方向に誘導しない限り、無益この上ない。

マスコミはあら捜しをやめるか、さもなくば報道自体やめるべきだ。(大体その資格はもうない)万人が一次情報にアクセスできる環境にある。何か主張したければブログに書けばいい。(自分は一次にアクセスはほとんどしてないですよ。でもこれを言える資格は少しはあるのではないかと思う。これは主に報道の構造的な欠陥を言いたいために書いてるので、報道が「一次情報」なので。)

菅が間違っているとしたら、小沢を切ることで生き残れると勘違いしたことだろう。彼は総理として飛びぬけたカリスマではないが、守りを固めようとしている(=政権を維持しようとしている)ので、政権を壊すつもりだったとしか思えない前総理よりはよほど適任だと思う。全力を挙げて政権を維持し、自民党との実質的な大連立に持ち込んでくれないかと儚く祈っている。あと、週一回官邸からの生演説を放送したいらしいので、これは是非実現して欲しいと思う。で、小泉以外使いこなせないから、ぶら下がり取材は廃止の方向で・・・。

そして自分は、結局この国にしてやれそうなことは何かを考える必要がある。・・・胃が痛くなってきた。結局、自分にえらそうに言う権利はない。そして自分にないように多分、多分誰にもない。キリストの石打刑についての逸話を思い出す。

最後に、私が云わんとしているのは、これは属人的な問題ではなく、構造的な問題だということだ。それを批判しようとしているこの文章ですら、その構造から抜け切ることができないから、たまに言い訳をいれておく必要があるほど、強固な構造なんだ。それから脱してくれと祈るように思っている。