希望と自我を放棄して生きることは可能か?

結論から言うと、自己決定ができないのを除いてある程度、生存は可能。

完全に喪失しても、死ぬ方が辛い程度の追い込まれ具合なら生きてる。
5年前にパニック障害の発作に襲われたことがあるが、当時それがパニック障害だとも知らないし、医者には行かなかったし、非常にきつかった。あの時、本当の恐怖と絶望を知った。「わかった。もう生きることに何一つ希望するな」と言い聞かせることで、自分はようやく生き残った。

ただし、倫理観だけは構築しておく必要がある。そうしないと社会性が完全に欠落する。

パニック障害やる前は、アホな習慣と関わりあいになってしまい、しかもそれを変えることに費やした膨大なエネルギーと、それで得たモノの虚しさに、無差別テロでもやりかねんほど憎悪に感情が塗りつぶされていた。なので、倫理観も何も吹っ飛んでいる状態だった。

自分の場合、結局「同じ状況になったら、恐らく分は逃げることなく同じ行動を取るだろう」ということを認めるのに2年。その後「目の前に助けられそうな人がいたら助ける」ことを軸に倫理観の再構築するのに1年を要した。地球の反対側で何人死のうがスマンが知ったことではない。

頭にくるが、ああいう伝統的な不条理な習慣を廃止しようとして、抵抗にあったような場合、自分のように上からの反対をあらゆる手を使い、抑えこんで廃止に持って行けるような日本人の割合は多く見積もっても1%以下である。その事実には未だに少し腹が立つ。善悪ぐらいてめえの責任で判断しろ。人の顔色を見るな。善良であれ、とは言わん。悪事をするなら悪意を持って行え!古来、責任の数え方っていうのは、血の何滴、指何本、命いくつで数えるものだ。人様に危害を加えるようなことをしようってんなら、指くらい詰める覚悟してからやれ!と言いたいが、分かってはくれんだろうな。

他人を本気で信用しない、自己開示ができないのは、そのせいだろうと思う。あの時の自分の周りにいた同年代・同性の人間たちが、邪悪であったとは最初から思っていなかった。邪悪なのは、無差別にテロを起しかねないほど、憎悪に心を売り払った自分の方だ。しかし、自分には連中の無知であるが故に無垢で有り続けられる、責任から逃げ続けられるという態度というか、悪意もないくせに目の前で起きていることから目をそらすことで結果的に不条理な現実を放置し続け、あまつさえそれの存続に手を貸す、というあり方に反吐が出た。連中は邪悪ではない。だが無知であり、無神経であり、その結果無責任である。そして、それは残念ながら多くの日本人のあり方に共通している。そういう自分だって、地球の裏側で起きている殺戮からは関係ないと言って目をそらしいている。あるいは何かできるかも知れない。でも自分には無理だ。あったこともない人は、空想の人物と同じでしかない。その人が死のうがどうしようが、すまないが自分の手に届かない。だから手の届く目の前くらいは助けようと思う。それは他人のためではない。そうあるべきだと思うからで、自己満足と変りない。誇ることではない。

自分が、廃止(廃止できたのは本当は自分の次の代からなのだが)を念頭にアホな行事(アルコールの一気のみのことね)推進論者と折衝していると、よく現実を見ろと言われた。現実の社会はこういうことがあって回ってるんだ、と。しかしそれによって苦しむ人間がいるという、本当の現実を見ることができてないのはやつの方だ。そもそも、そんなことをしないと社会が回らない、という思い込みの方がよほど現実とは遠いではないか。人の手でどうしようもないこともあるが、どうにかしようと思えばどうにでもなることだってある。それを現実だと言って所与のものと認める方が現実が見えていないのだ。

う〜ん。話がずれるが、まあいいや。だいぶいい方向にクスリが効いてきてるようだ。

余談だが、自分の知識は同じ状況で相手を論破することができるようになることを念頭に漁ってきた。無知のせいで、不利な交渉になったのが、よほど悔しかったのだろう。なので、絶対に勝たねばならん交渉事になると、手持ちのカード全て点検して、切る順番と相手に切らせるカードのリストを作る癖が付いた。ただし自分のことでここまで本気にはならん。