可能性と不可能性についての考察 (四畳半神話大系のレビュー)

「可能性という言葉を無制限に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」---四畳半神話大系(もりみとみひこ)

可能性という言葉を使うときに、正確さを期すために、純粋に未来に対する可能性と、現在(場合によっては過去)に対する可能性をわける。つまり、未来に可能なことがらを想像する上で、語られる可能性という言葉と、過去に違う選択をした場合に起きたかもしれないことを夢想する場合に語られる可能性という言葉は別モノだ。というか、日本語で、その二つを分けて呼ぶ言葉がないだけだ。

樋口師匠の名言の中でも冒頭に挙げたものは結構マジである。私としては、「夜は〜〜」の「このロマンがわからないのか?」を挙げたいが・・・。

その後、樋口師匠はこう続ける
「我々の大半の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想することから始まる。自分の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根源だ。今ここにある君意外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない。〜〜」

『あり得べき』という言葉は、「あり」「得(う)」「べし」であり、この場合の「べし」は「当然○○でなければならない」という意味。つまり、「『現在』こういう事態が可能でなければならない」ということになる。直訳すれば。(余談だけど、この間、大学の古文漢文の入試問題みたけど、いまだに読めた。我ながらよく覚えてるもんだ。)

つまり樋口師匠のいう「可能性」は現在、あるいは過去におき得た事柄を夢想する際に語られる「可能性」であり、そして、「そんなものはない。現状の自分を受け入れろ。」と主人公を諭す。(この辺の思想の元祖、というか一番カッコイイ、もといもって回った言い方をしたのはニーチェ永劫回帰である。詳細はWikipediaを読むよろし。もっとも、私は「どんな思想や概念にも元祖が存在する」という説に多少疑問を持っているのだけど)

樋口師匠の言葉は、読者の前には第一話から第三話を、パラレルワールドとして語ることで示され、第四話において、四畳半世界という、パラレルワールドを行き来できる閉鎖空間という物語装置を設定することで、主人公自身に提示される。そして第四話において、主人公はどのような選択をしてもあまり代わり映えのないという現状を見せ付けられ、あり得べき人生を夢想することをやめ、憎むべき悪友の小津に「愛」を持って接することができるようになる。というのが筋である。

森見登美彦の大学生を主人公とした長編の著作は、(多分まだ出ると期待してるけど)
太陽の塔」->「四畳半神話大系」->「夜は短し歩けよ乙女
の順になっている。

並べてみると、主人公の「追い詰められ具合」がだんだんと減ってくる。

太陽の塔」では、終盤行き詰った主人公が「ええじゃないか」という他人から発せられた言葉に対して激怒している。つまり、無気力で追い詰められて、斜に構えた主人公が、「どうでもいいわけがない」と気がつくまでの話であった。(これ書いてると自分のことを省みて胃が痛い)

「四畳半」では、書いたとおり、現状を受け入れ、自分が置かれている状況を愛することができるようになるまでが描かれている。

「夜は」では、主人公はこれまでとは違い、恋した乙女を手中に納めようと東奔西走し、結果「神様のご都合主義」により成功する。とうとう幸せになりやがった。

これは、森見自身の心の変遷を如実に表しているとみるべきだろう。「太陽の塔」は森見氏の経験を下書きに作られたものであるらしい。そもそも理系の大学院生が小説を出版するという自体、そうとう追い詰めれてねーとやらんだろう。

薔薇色からは遠い、鬱屈したキャンパスライフを送った氏が、自分の経験を受け入れ肯定し、自身が唾棄していたばら色のキャンパスライフを手に入れるために奮闘する男の喜劇を描けるようになる。なので、この3作を読めば、読者は、森見氏の回復過程を透かし読むことができる。その辺の鬱屈した過去に対する思いと、それの舞台となる「へもい」大学生活にシンパシー感じてしまって、やっぱり森見登美彦は大好きだ。もっとも、私のほうが悲惨だったと思うけどね。まあ、私より悲惨なのも多くいるし不幸自慢はしちゃいけない。

ところで最初に未来についての可能性と現在についての可能性にわけたのには、個人的な、認知行動療法上の理由があって、「自分に不可能なことは無限にあるのだから可能なことを数えるべきだ」と思うようになったからでした。

「平面に書かれた一点の座標を述べよ」と言われたら、数字を二つ挙げればいいけど、「平面に書かれた一点以外の座標を述べよ」といわれたら、無限に終わらない。なので未来については、不可能性を数えることは無意味なのです。

(こう書いているけど「循環しない無限小数を言い終わる」ことなどできないので、実は座標を表すことは不可能だという見方もあります。これについては野矢茂樹「無限論の教室」を参照のこと。オススメ。まあ、それでも「一点以外の座標」を述べつくすよりは早いでしょう。)